『志摩町史』に掲載の「不動尊」関係記事


その1:不動堂(旧志摩町史:昭和53年−1978発行)   

(一)沿革

延暦年間(七八二年〜八○五年)、僧空海(弘法大師)が爪で刻んだ不動尊を信仰して村民が堂を建てたと伝承されている。
 寛政年間に美濃国の名僧霊源禅師が御詠歌を作って各地を托鉢して、その喜捨によって本堂とこもり堂を建立し、その後明治三十五(一九○二)年にこもり堂を増築した。
 この頃の参道は現在より南よりで、現在の藤沢家の前より不動に通づる参道であった。
 大正十一(一九二二)年に参道を切り替え、旧神社地全部と付近の畑、山林一町一反を切り開いて現在の参道が出来た。境内も拡張された。
 又大正中頃、御木本幸吉氏が宮の前から不動堂に通ずる車道を寄進し、金比羅山も遊園地に改修した。
        ※旧神社地とは旅守神社のこと

(二)由緒

延暦年間、僧空海が唐(中国)から帰って真言密教の布教の霊場を建立せんものと全国を巡って、よい環境の地を探し求めて御座に来られた。
 七丘七谷を巡らしたこの御座の地を選んで、金比羅山(聖ヶ嶽)にて百日の護摩供養の後、自らの爪をもって地中から突出している自然石に不動明王像を刻まれたと言われている。村民は爪切不動として信仰し、一堂を建てて霊場とし、絶対秘仏としている。
 この堂は破損すれば、その個所だけ修理して全体を新築することがないという。

(三)境内

四方に山を巡らし、自然林の中にあるこの堂は静寂で空気が重いようである。山から清流を引いて池を造り、鯉・亀を飼って情趣を添えている。参道には桜と紅葉並木が続いて春は花見の人が多く訪れ、秋は紅葉を賞する。

(四)本堂の外

 大師堂、霊符堂、こもり堂、子安地蔵尊、更に薬師堂、お稲荷さん、事務所、札所があり常時堂もりが対応している。

 梵字石 本堂裏の崖に三○センチから五○センチほどの梵字石が二十数個ある。各石に梵字が彫刻され一石一仏で一個一個が仏の象徴で、室町時代のものと推定されている。もともと村内各地にあったものを不動堂に集めたものと言う。
 霊験碑 本堂裏に硬砂岩の碑がある。天保十四年、「南勢草医益周斉」の撰になる不動堂の由緒から霊験のかずかずが刻されている。

(五)不動と信仰

村民の不動に対する信仰は厚く、病みて不動、癒えて不動、祝って不動、旅立つに不動、帰って不動と一身の幸福、一家の繁栄等すべて明王の霊力に託している。
 奥志摩地方の信仰の中心である。戦時中の信仰は絶大であったことはもちろんだが、今でも日参する人々が跡を絶たない。

(六)縁日

 月の十六日が縁日で遠近からの参拝者が多い。かつては特に盆、正月の十六日は近郷近在からの参詣者が多く、十五日の夜は夜籠りをするため、村人たちで籠り堂は満員になった。境内に露店が立ち並び、のぞきなどの見世物が出てにぎやかであった。境内で相撲大会やのど自慢なども行われた時期もあった。


その2:「改訂版」(注:ただし旧志摩町と記載内容は同じなので追加されたもののみをUP)


 写真:御座爪切り不動




 写真:大師堂



 写真:梵字石



 写真:石碑とその碑文



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